【Patrick Carvalho氏 駐日ブラジル大使館講演|2025年4月22日】

サンバと共に生きる、ファヴェーラ出身ダンサーの物語

(※本記事は講演の原文を基に翻訳したものです。できる限り原意を尊重しておりますが、一部の訳出に関しては解釈が分かれる可能性があり、正確性を完全に保証するものではありません。ご理解のほどお願いいたします。)

皆さん、こんにちは。
本日ここに立つことができ、大変光栄に思います。ここでの講演は、私自身にとってだけでなく、私の育ったブラジルのコミュニティの何千人もの子どもたちの夢の一部でもあります。

〈はじめに〉

私は、リオ・デ・ジャネイロのファヴェーラ(貧困街)で生まれ、リオのコミュニティで行われていた社会プロジェクトの中で育ちました。
子どもたちに無償でダンスや音楽などを教えるその場所で、アートとはなにか?を知りました。そこで私はサンバに救われ、今日ここに立つまでに至りました。

本日は、私の人生における、サンバというアートとともに果たすべきミッションについてお話をします。

そして、多くの日本人がサンバを愛し、サンバに敬意を払い実践されていることを大変嬉しく思います。
15歳の時、ある日本人ダンサーに出会い、私は彼に非常にインスパイアされました。今日ここに来ていたいただいておりますジョージさん、どうもありがとうございます。
当時の私はサンバで生きていくことを夢見る少年でしたが、今日、私はジョージさんの前で、アフリカ起源のサンバで全世界を結びつけることのできる、私の最高傑作であるブラジルサンバコングレスと共にここに立っています。

〈子どもたちの夢のために〉

まずは、私が取り組んでいる子どもたちのためのプロジェクト“フィーリョス・ド・サンバ”についてご紹介します。
「夢は叶う」ということ、プロのサンバダンサーになって世界を旅し、世界の文化に触れることができるということを、サンバを通じて子どもたちに信じてもらうためのプロジェクトです。
このプロジェクトはサンバを愛する世界中の人々、そしてジョージさんを始めとする日本の方々からも様々な支援をいただいています。

それでは、子どもたちの才能をご覧ください。

プロジェクト紹介:Filhos do Samba (サンバの子どもたち)


https://youtu.be/PkndvpqnLbI?si=Gwom1EguvSqOf7bc

これはおそらく私にとって最も挑戦的なプロジェクトです。子どもたちの手を離さず導いていくことは、ひとつのコングレスを作ることや、「コミサォン・ジ・フレンチ」というサンバチームの先頭舞踏グループを作り上げることよりもっと難しいことかもしれません。
このプロジェクトは、サンバが私に与えてくれたすべてのものをサンバに返すための私の方法です。また次の人のために。

ですから、皆さんとのこのつながりは極めて重要です。なぜなら、それが可能であることを子どもたちに明確に伝えることができるからです。
私の国の大使館でこのように歓迎を受けることは非常に感動的で、私は一人ではないと確信できます。ブラジルに抱きしめられ、ブラジルと共に踊っているということ。皆さんの力を借りてこの会が実現していますが、今現実に起きていることとはなかなか信じがたいです。
コングレスを世界各地で開催するために奮闘してきた中で、ブラジル大使館でこのように歓迎してもらったのは日本が初めてです。
これは皆さんのアイデアが導いた本当に素晴らしいゴールです。

タイも今非常に感動していますが、それは私たちにとってほぼ不可能とも思えたことだったからです。しかし私たちは世界の反対側でもそれを成し遂げることができるということを皆さんが示してくれました。

メストリ・イリネウ、あなたがここにいて、私たちが取り組んでいるすべてのことを見てくれていて嬉しい。イリネウはドイツに住み、大学で仕事をしているのですが、私が彼に「日本に行って、日本のサンバ愛好家たちとつながる必要がある」と言ったとき、彼はすぐにすべてを投げ出して「行こう、それは私たちの使命だ」と言いました。あなたはすでに私たちの使命の一部であると確信しています。

〈ブラジル・サンバ・コングレス〉

この若者たちは、踊ることをやめません。

◆プロジェクト紹介:Brasil Samba Congress

この130年の歴史の中で、皆さんはまさにこの一部を担っています。
サンバのダンスは私たちの起源であり、幸せや悲しみ、
そして自分自身を表現する方法です。

ブラジルサンバコングレスは、自分自身を癒すため、サンバに繋がる3人が作り上げたイベントです。

(ロサンゼルス在住の) アニーニャ・マランドロはその一人で、神性を持つ守護天使であり、マンゲイラの最高峰のパンデイロ奏者の娘です。このイベントを通じて、サンバ、ガフィエイラ、アフロ、そして伝統的なダンスを通して世界中の人々を結びつけるため、彼女を中心にロサンゼルスで、インターナショナルサンバコングレスが始まりました

その後世界中に拡大し、カナダ、オーストラリア、ドイツ、アルゼンチンなどで開催してきました。そして今、私たちはその“魔法”を皆さんと共有するためにここに来ています

世界各地で開催する中で、それぞれの場所で独自の方法や形式が採用されています。日本がどうなるかはまだわかりませんので、また来年にどうだったかお話しできると思います。一つだけ、もうすでに実現していることがあります。私たちの人生、そしてこのイベント、私たちの道に皆さんが一緒にいるということです。

〈カーニバルにプロフェッショナルとして立つこと〉

カーニバルでの私の人生についてもお話しする必要があります。なぜなら、児童社会プロジェクトに参加していた頃の私の夢は、カーニバルのプロとしてマルケス・ジ・サプカイに到達することだったからです。

市立劇場にしか開かれていないような閉鎖的な場所にプロとして立つことは、
貧しいコミュニティ出身の子どもにとっては
ほとんど不可能であると思われましたが、私はそれを実現しました。

私は、コミュニティの子どもであっても実現可能であると、声を大にして言いたい。私の母にはバレエやジャズのアカデミーに通わせるお金はありませんでしたが、寄付金によってダンスを学ぶことができました。サンバは私のルーツから来たものであるにも関わらず、困難な道のりなのです。

私のカーニバルのアヴェニーダでのパフォーマンスを少しだけお見せしたいと思います。私の生み出した作品の中でもナンバー1、エスタンダルチ・ジ・オウロ(TV Globo主催による賞)を始め多くの賞を獲得しました。これによって日本にも来ることができ、世界と繋がることができるのです。

◆カーニバルでの活動:Imperatriz Leopoldinense 2025 Comissão de Frente

これは皆さんに強調しなければならないことです。私たちが『抹消』『隠す』ことについて話すとき。だからこそ、私は皆さんにこれをそのままお見せしました。

これを創造し、実現したのは私で、全てのアイデアは私によるものです。アヴェニーダにこれをもたらしたのは私で、起きたこと全てのオーナーは私です。

TV Globoは、オスカーを受賞したフェルナンダ・モンテネグロ(女優)とウォルター・サレス(映画監督)については触れても、私のことについては語りませんでした。彼らがこの映像を放映できるのは私が作り出したからです。

私が言いたいのはこういうことです。私が日本に来て、そして私の国の代表者の方達に私は何者であるのかを知っていただくこと、分かち合うことは意味のあることであると思っています。

今日最初にお見せした子どもたち、私はあの子どもです。

そして私はリオのカーニバルで唯一の黒人振付師です。
もっと増やす必要があります。
一人の名前が忘れ去られてしまったとしても次の一人もきっと黒人でしょう。

イリネウもタイも私も感動しているのはそういった理由からです。

この戦いは非常に困難なものですが、皆さんと一緒なら少し楽になります。

〈イリネウからの言葉〉

アカデミックな分野、つまり大学の世界から来た者として、ちょっと付け加えたいことがあります。私は、カーニバルやサンバに携わる黒人のプロフェッショナルたちが生み出しているような、人間としての本質的な意義を、学問の中では見いだすことができませんでした。彼らは“沈黙のプロフェッショナル”なのです。

ブラジルサンバコングレスを立ち上げた3人(パトリッキ・カルヴァーリョ、ホドリーゴ・マルケス、アニーニャ・マランドロ)はブラジル人の身体を売り物にするためではなく、ブラジル人の身体を通して、サンバを通して、ブラジル文化という芸術を教えるために、洗練された身体表現を生み出しました。

あえて言いますが、昔はサンバが外国人に“文化や感性”を教えていたんです。

つまり、ブラジル音楽、サンバが人々に教養を与えていたんです。

今では、“叙情的なサンバ”があって、身体がとても前面に出るようになりました。

身体もまた叙情的で、詩的なんです。

そして、私にとって最大の喜びのひとつは、パトリッキが私をパートナーとして、友人として、そして助言者として選んでくれたことです。若者たちがこの私たちの仕事を受け継いでいけるように、あなたと一緒にそれを手助けする存在としてね。

〈タイからの言葉〉

私はこの流れの“産物”なんです。14歳のときにパトリッキ・カルヴァーリョと出会い、サロンダンスを学び始めたことから始まりました。

彼の元で学び続け、2018年に初開催されたブラジルサンバコングレスに参加しました。その後インターナショナルサンバコングレスにも参加し、私は国際的な講師になったのです。 そして2022年にはカーニバルの女王となり、彼と共に“それは本当に実現可能なのだ”ということを示しました。

私はすべての開催回で講師を続けていて、今こうして日本に来ています。つまり、まさにパトリッキが冒頭で語ったこと、“変化の重要性”の具体的な例というのが私です。このプロジェクトがブラジルにとってどれほど大切で、この“つながり”がどれほど重要か。そして今、私は心から確信しています。これこそが私の人生にとって望むものなのだと。

そして私は、自信を持って言えます。私は“サンバ・ノ・ペ”という芸術を生き、その体現者です。私は講師であり、彼が語ったすべてのことによって、“サンバ・ノ・ペ”のプロフェッショナルになりました。だから私は信じ、歩み続けています。そしてこのつながりやここ大使館での出会いが、私たちにとって大切なことなのです。

存在してくれて、手を差し伸べてくれてありがとう。機会を与えてくれて、そして私たちにとって最高の一日をくれることに。これがどれほど大変なことかを私は知っています。本当にありがとう。

〈タイの言葉を受けて パトリッキ〉

タイは生きた手本です。いかにその人生を変えるかということを示しています。

そして今、彼女はカーニバルの女王になることを夢見る多くの少女たちの憧れの存在です。

今日、彼女はここにいます。ぜひ彼女の存在を存分に感じてください。彼女はすでにヒロインであり、リオ・デ・ジャネイロのサンバの歴史にその名を刻んだ人なのです。

〈駐日ブラジル大使館 ホメーロ・マイア参事官より〉

まずは感謝の気持ちを伝えさせてください。今日ここ大使館で私たち全員が受け取った、この“愛情のシャワー”のような温かさに。

あなたは“つながり”についてたくさん語っていましたね。あなたのスピーチの中で、ある“数字”が私の注意を引きました。それが何を指しているのか正確には分からなかったのですが、もしかすると素敵な偶然かもしれないと思いました。

あなたは“創設から130年”のことを話していましたよね?おそらく、それは“サンバが登場し始めた頃”として私たちが目安にしている時期と、だいたい同じ頃のことを指していたのだと思います。

ここで歴史的な詳細をひとつ挙げると、ブラジルで最初に収録された曲で“最初のサンバ”とされているものは1916年の『ペロ・テレフォーニ(電話で)』でした。

ブラジルと日本が友好関係を築いてからも今年で130年になります。

少しお話してほしいのですが、“商業的なサンバ”について、そしてブラジルの黒人の人々との“つながりの訓練”としてのサンバを、あなたがどう見ているのか。

さらに、あなたは“今日から始まる”と言っていましたが、私はもうすでに始まっていると思うんです。日本とのその“つながり”について、そして“サンバを通じた黒人とのつながり”について、少し話してもらえたら嬉しいです。

〈パトリッキより〉

このつながりは、とりわけサンバの“ダンス”にとって、日々の闘いの歯車でもあるのです。私たちは“ダンス”をきちんと認めていない、“音楽”について話しているのです。

キューバに行けば、サルサが流れているパーティーがあって、すぐにその音楽に合わせて踊っている様子を見ることができます。

アルゼンチンに行けばタンゴのオーケストラが演奏していて、タンゴを踊るカップルを見ることができるでしょう。

私は訴えています。歌手たちは常に、音楽と共にサンバのダンスをステージに取り入れる必要があると。耳で聴いているものを、どのようにダンスという形で見せるか。

私たちブラジル人自身が、自分たちの文化にとって何が最善かを理解する必要があるのです。

そしてそれは無限で、止まることがないんです。社会プロジェクトの中で育った少年が、コミサォン・ジ・フレンチとして活躍することを、彼も誰も想像していなかったように。

一人の少年が実現したのですから、私たちが投資すれば、200人育てることもできるのではないか?

以前は、サンバのバンドや歌手が日本へ来ても、ダンサーは日本に残って活動を続けていました。しかし今では、タイは別の国での仕事のためにすぐに出発しなければならないほどになっています。

なぜなら彼女は、“サンバダンスのプロフェッショナル”として国際的に認められているからです。

つまり、私たちはすでにサンバダンスをこれまでとは違う形で語っているのです。

そう、私たちは“サンバダンスという芸術”のプロフェッショナルなのです。

私たちは今、皆さんと一緒にこの瞬間を体験していて、皆さんからもたくさんのことを学んでいます。私はいつもこう言っているんです。これで日本に来るのは5回目ですが、毎回素晴らしいものや素敵な学びをいっぱい得て帰るんです。だからブラジルへ帰ったときには、皆さんがどれほど特別な存在かを大声で叫んでいます。

うまく伝えられるか分かりませんが、私がいつも心に留めている言葉があります。

それは『大胆な鳥は高く飛ぶ』という言葉です。

このプロジェクトで共に羽ばたいてくれて、本当にありがとうございます。

日本語記事文責:須賀紗彩
写真撮影:勝目恵

◆講演動画撮影:SOU AZUL
(※駐日ブラジル大使館とパトリッキ氏本人の許可を得て公開しています。)


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